2001年
2003年
語学留学の態でローマに旅立つ。当時のイタリア語力は日常会話もおぼつかないレベル。行政の機能不全に起因し、滞在許可証が1度も発給されることは無く、半ば不法滞在外国人のような状態で、社会的な権利を持たないまま、イタリア語の学習に没頭し、1年6カ月で帰国。実用イタリア語検定2級合格
2005年
帰国後東京に転居し、大手外国語学院でのイタリア語講師からキャリアをスタート。2007年からはイタリア語講師を代表する立場である、イタリア語教務トレーナー兼任。
2007年
イタリア語講師として勤めながら、実用イタリア語検定1級試験に合格
2008年
イタリア語通訳案内士試験に合格し、翌年資格を取得。
2010年
上記外国語学校を退職し、フリーランスイタリア語通訳案内士・通翻訳者として活動を開始
2011年
1月から、現在は日本中央競馬会の騎手であるクリスチャン・デムーロ(ミルコ・デムーロ弟)の初来日と短期免許による騎乗期間の3カ月、同騎手の専属イタリア語通訳を務める。
東日本大震災発生時、関西空港で、災害時緊急出国のためのイタリア人渡航客であふれかえりパニック状態のアリタリア航空チェックインカウンターで自主的に行ったボランティァ活動が、イタリア国営放送RAI夜のニュースで取り上げられ、またこの活動が、緊急の状況下において冷静沈着でありながら心温まる支援であり、その状況を共有したすべての人々から深く感謝されたとして、在大阪イタリア総領事より公式の感謝状を受ける。
東日本大震災後はインバウンド需要が完全にストップ。この年予定していた全ての業務がたちまちキャンセルに。
11月より、女子バレーボールVリーグ埼玉上尾メディックス(現Vプレミアリーグ)のイタリア人選手の通訳として、翌年5月までの1シーズンを、1部リーグ昇格を目指す同チームの一員としてともに戦う。
2012年-
埼玉上尾メディックスでの通訳業務終了後、男子バレーボールVプレミアリーグ サントリーサンバーズのイタリア人監督の通訳として、2014年5月までの2シーズン、チームの一員として参加。 チームは2012-2013レギュラーシーズン優勝、黒鷲旗杯優勝を経験する。 また、同監督は、2014年度からの全日本男子バレーボール代表の新監督候補として水面下で取り沙汰されるも、結果的に実現しなかったことで、バレーボール界を離れて、イタリア語通訳案内士としての活動に徐々に復帰。
2015年
サイクルロードレース分野で通訳者として活動してきた経験から、ロードバイク(スポーツ自転車)の分野でイタリアの名匠と知られるドリアーノ・デローザのブランド“BIXXIS”の日本輸入代理店“BIXXIS JAPAN”としての活動を開始。イタリア語通訳案内士としての活動と並行して取り組む。
2017年
チクリズモに端を発する、伊フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州と静岡県の友好提携イニシアティブ「フジ・ゾンコラン」をBIXXIS JAPANとして後援。 イタリアのサイクリングイベントに参加する募集型ツアー「フジ・ゾンコラン カルニアクラシック2016ツアー」にイタリア語通訳として参加。 同ツアーの記者会見をイタリア大使館で行う。
2019年
「BIXXIS」のフレーム職人ドリアーノ・デローザの初来日と一連の来日イベントを実施。伝説的な自転車職人を父に持ち、自身も名匠と知られる同氏が日本に来日し、はじめて公の場に出たこの機会は、大勢のサイクリストの関心を集めた。 同年11月1日に「合同会社ラ・メッカ」を設立し、事業活動を個人から法人に移管する。
2021年
2003-2004年のローマ滞在後から16年間過ごした東京を離れ、地元の大阪に転居。合同会社ラ・メッカの新事業所を大阪市南堀江に設置する。
2023年
コロナウィルス感染症の5類移行に伴い、春から観光業が活況に。3年半ぶりに通訳案内士としての復職を果たし、たいへん充実したシーズンを過ごす。
2024年
合同会社ラ・メッカとして大阪府知事登録第3種旅行業の認可を受け「旅やラ・メッカ」の屋号で営業を開始
イタリアにおける営業活動について、大手旅行会社Quality Groupの元プロダクトマネージャー Pietro Lamprati氏と代理人契約をむすぶ。
資格
実用イタリア語検定1級
全国イタリア語通訳案内士
国内旅行業務取扱管理者
旅行サービス取扱管理者
国内旅程管理主任者
大阪府登録タクシードライバー
上級救命士